注释与参考文献:
[1]有两个版本,一个是明代刻本,一个是宋代的刻本,此处所选用的是宋代的刻本。参见王庸:《中国地理学史》商务印书馆,1938年,第79页。
[2]王庸说:“南宋初伪齐阜昌七年(绍兴公园一一三七年)上石的的华夷图和禹迹图大概是根据贾耽的华夷图辗转缩绘的。”曹婉如说“这幅图很有可能就是贾耽图的缩本”。参见王庸:《中国地图史纲》,北京:北京三联书店,1958年,第44页;曹婉如:《介绍三幅古地图》,《文物参考资料》, 1958年,第7期 。
[3]室贺信夫:《古地図抄:日本の地図歩み》,东京:东海大学出版会,1983年,第115页。
[4]この図が西安碑林の阜昌七年(1136)刻石の《華夷図》と系統を同じくするものであることはあきらかである……阜昌七年(1136)の《華夷図》に基づいたものでないことは、《歷代地理執掌図》の成立がそるより三○年以上も早いことによって明白であり、十一世紀末頃の蜀地方には阜昌石刻図と同じ図形のものが流布していたであろう、換言すれぱ、唐の賈耽の《海內華夷図》(801年)を源流するずは、図阜昌七年(1136)に石に刻まれる以前、すでに蜀の稅安禮の注目するところとなっていたわけである。参见【日】海野一隆:《东洋地理学史研究•大陆篇》,《汉民族社会历史地图的变迁》,大阪:清文堂出版,2004年,第64页。
[5]孙果清:《现存中国古代孤本、珍品舆图赏析 历代地理指掌图》,《地图》,2004年第6期。
[6]《旧唐书•贾耽传》,卷一三八,北京:中华书局,第3784页。
[7]王庸:《中国地图史纲》,北京:北京三联书店,1958年版,第44页。
[8]この図は今日傳存しないので図中に日本などの夷島が記載されていたかどうかは明らかでない……むしろその描く範囲は外夷には及ばなかったようにも思われる。だが魏は東夷の諸国ととくに重大な関係をもっていた国である。しかも裴秀は晋の泰始七年(271)に四十八歲で歿したで倭女王の魏への遣使はその青年時代の出來事であり,また萬年には泰始二年(266)晋にいたった倭の使にまのあたり接したはずであった。司空の官職にあり地理の學に詳しかった彼が、この東方の異域について無関心であったとは考えられないだろう。してみると彼の地図上に倭国が記入されていたと想像しても、あながちに根據のないことだとはいい得まい。参见【日】室贺信夫:《古地図抄:日本の地図歩み》,东京:东海大学出版会,1983年,第117页。
[9]据汪向荣考证,《日本考略》是中国历史上第一部日本研究的专著。现存的《日本考略》有得月簃丛书本,是道光辛卯仲夏刻的,此外,还有金骥刻本和《国朝典故》、高丽抄两种抄本。汪向荣说以高丽金刻本为佳,高丽抄本就是据金骥刻本抄录的。其中高丽刻本和抄本中都有《日本国图》,而其他版本里都没有。参见汪向荣:《中日关系史文献论考》,长沙:岳麓书社,1985年,第224-225页。
[10]次に記す日本一鑒に初梓考略とあるは鄭餘慶印行の初版、續梓考略とあるは王文光がその遺れるを補拾して重刊した版ではなかろか。参见【日】秋冈武次郎:《日本地图史》,河出书房,1955年第33页。
[11]薛俊:《日本考略•朝贡略》,高丽抄本,第12b页。
[12]支那人の持つ此の日本知識を、先づ根本的に改造したのは、奝然である……入宋し、五年の後一條天皇の永延五年歸朝したのであるが、その間日本に就いていろいろの事情を述べてある。この《王年代纪》と共に重視すべきものは、彼によって傳へられた日本地理に関する報告である。それは、で、《宋史》には、この全文が續けて誌るされてゆるのであるが、《宋史》に收められる前には、大體か、る體裁のものであったらうと思はれる。それは後述する《籌海図編》の記載によって想像せられることである。参见【日】秋山謙藏:《明代支那人の日本地理研究》,《历史地理》,第61卷,第1号。
[13]日本考略の原図とは別に伝わったわが行基式日本図によって描作されたものであることはすでに暗示したが、補記なおしょう。参见【日】秋冈武次郎:《日本地图史》,河出书房,1955年,第36页。
[14]郑若曾:《筹海图编》,《筹海图编凡例》,李致忠点教,中华书局,2007年版,第11页。